自己実現に悩まされる若者たち

夢や目標といった言葉は子供たちを奮起させるモチベーションとして、長い間学校教育のなかで用いられてきました。人は成長するものですから、夢や目標を持たせそれにまい進させるというのは古いようですが不変なものかもしれません。

しかし、ここ最近では自己実現という言葉が世の中に定着し、成長を期待する大人の思惑とは意に反し成功する事が必然かのように子供たちに解釈され、直面する現実との違いから苦しまされているような気がします。

 

ところが、この自己実現という言葉は正しく理解されておらず、多くの人は勝手に誤解したまま、その意味に怯えているとも言えます。

 

これまでの解釈では

他の欲求との連動性も気にせず、自己実現という言葉だけをピックアップするものですから、夢を叶えることであるとか、完全体になることを何かを成し遂げることと捉えたりもします。また最近では何を言いたいのか分からないのですが「ありのまま」のことを指す人もいます。

 

自己実現とはその人の持つ「かけがえのなさ」を意味します。私たちはかけがえのない存在になりたいと願う瞬間があり、それが自己実現のもつ姿なのです。

そもそもこの自己実現とは成長欲求の最上位に位置するものです。ですから下位との連動が無ければならないはずです。

 

一貫しているのは私たちが成長と共に自己の有用性を感じたい生き物だという事です。

 

生理的欲求は睡眠欲や排せつ欲を表しますが、これらは生きているからこそ出来る事です。つまり自らが存在を認める場所です。

安全欲求は身の安全や安心を欲する場所ですが、周りから気に掛けられる事で私たちは存在を認められ安心します。つまり他者から存在を認めて貰いたい場所です。

社会的欲求は所属や貢献による安定です。認めて貰えたことで誰かの役に立ちたいと感じる場所で今度は多くの他者から認めて貰いたいと願う場所です。

尊厳欲求は尊敬されたいと願う場所です。多くの人から認めて貰う事に慣れると、そこから称賛を欲しがるようになります。

そして自己実現はその称賛が決して絶対ではない事に気付き、それを超えるかけがえのなさを欲するようになるのです。

これが成長欲求の実態であり、私たちがつねに誰かに認めて貰う事で有用性の高い存在を目指そうとしているかが分かると思います。

自己実現が何かを成し遂げることではないという事だけは分かっていただけたかと思います。他者を蹴落とし一位になる事が自己実現ではなく、その行為が他の人では成し得ない、かけがえのなさがあるかどうかなのです。

だから人と同じことをしていたら自己実現は難しいことも分かってきますね。

 

 

何故いじめをなくせないのか

いじめは何故無くせないのでしょうか。

 

よく言われるのは、人間の本能だという話です。

でもこれ、答えが見つからない人が使う嘘の話です。

 

本当はいじめたがる心理構造を知らないから、長い間こんなことになっているのです。

支配欲や優越感なんて聞こえの良い理由も表面的であり

深層部の構造を知らないから、対策さえ打てないのです。

 

いじめは二つの段階を経て成立します。

一つ目は攻撃性を起こす衝動

二つ目はそれを正当化する正義

この二つを満たした時、いじめは起きているのです。

 

一つ目の衝動は自己有用感の欠乏によって発動します。

私たちは誰かに認めて貰いたいと潜在的に思っています。

自己有用感とは他者評価によって成り立つ感情であり、

この欲求が満たされない時、自己有用感は欠乏を引き起こします。

 

存在を認めて欲しい。

必要だと思われたい。

尊敬されたい。

など、自分ではもっと評価されてもいいはずだと感じる中で

他者評価からのギャップはストレスとして現れます。

 

すると、私たちは弱そうな誰かを探し

相対的な有用感で落ち着こうとする行為が攻撃性として現れるのです。

自慢話で解消される子もいれば、優位性がないと解消できない子がいるだけなのです。

 

誰にでもいじめる可能性があると言われているのは

相対的な有用感に私たちが依存しがちだからです。

 

そこへ二つ目の攻撃を正当化する正義が生まれた時、その攻撃に躊躇いがなくなるという訳です。

正当化するには

「相手が先に仕掛けた!」

こんな一言で簡単に成立します。

 

他にも「イケていないのに目立ちやがって」

こんな差別的な偏見にも怒りが起こります。

これは、イケていない奴は目立ったりしてはいけないという

許容のない偏見があるからです。

 

さらには多数が正義になる社会的構造を利用し、

仲間を増やして少数派をて悪に仕立て上げるのです。

これらを上手く利用し、子供たちは巧妙にいじめを起こしているのです。

 

こういった流れは私たちが有用な存在でありたい欲求を

誰もが持っている表れですから多少は仕方がありません。

 

 

何故なら本質的な原因はそこではないからです。

 

問題なのは自己有用感の欠乏を他者比較で解消してしまう

他者依存であり、これこそがいじめを無くせない根本的な原因なのです。

 

 

心理学者のA・Hマズローは人は成長する上で様々な欲求を持つという

欲求階層説を提唱しています。

 

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この階層欲求は成長と共に自然と満たされると多くの人が誤解していますが、

実際は相対的な比較によって「誰かよりマシ」で落ち着いている人が殆どです。

 

いじりやすい誰かを探し自分の身を守ろうとしたり(安全欲求)

無能な誰かをでっち上げ、自分が有能だと評価されようとしたり(社会的欲求)

権力を利用し、逆らえない人を周りに起きたがるのです。(尊厳欲求)

これらは長年私たちが克服できない他者依存によって起きているのです。

 

ですからこの他者依存を無くす指導を心がければいいのですから

対策はとても簡単です。

 

 

手っ取り早い所では、人間の目指すところを教えてあげる事です。

絶対的な価値を教えていないから私たちは相対的な価値を求めてしまうのです。

 

タレントの武井壮さんは

人の価値についてこのように話されています。

 

「人の価値というのは、その人がいることによって喜んでくれる人の数だ」

 

つまり多くの人に良い影響力を与えられる人が最も有用な存在だという訳です。

どんな道を選ぼうが、次の世代に良い影響力を与えられる存在なら

その人の価値は高いのです。

 

人を見下すような人はたとえ優秀であっても悪影響を及ぼすだけですから、

社会的には全く価値がないということになります。

学歴や職種に有用性を見出そうとするのも、本来の価値を知らないだけですから

これから改めていけばいいだけなのです。

 

それぞれが相対的な比較から抜け出して、

絶対的な価値を目指す社会が生まれたらいじめなんて簡単に減らせるのです。

逆を言えばそこに気付けないからいじめや生きづらさは無くならないのです。

 

 

 

 

自己肯定感は高ければいいのか

近年、大人たちの中で自己肯定感はなくてはならない感情だと言われていますが、本当にそうなのでしょうか。

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私は、いじめを起こす子たちにある、強い自己肯定感がとても危険でならないと感じています。

 

自己肯定感とは自分を否定しない感情です。

すなわち自我があり、頑固な人ほど自己肯定感も高いといえます。

 

自己肯定力が高いというのは、自己価値にも高い自信を持っていますから、この子たちが否定的な目に合ったりすると満たされていた有用感が欠乏をおこした状態になり、何をするか分かりません。

 

プライドを傷つけられるといった感情も自己の有用性を否定されるからではないでしょうか。


いじめられる子の側に立てば自信を持たせる事が重要で、そこから自己肯定感が不足しているのではと考えついたのだと思います。

しかしいつの間にか自己肯定感はあればあるだけ正しい事のように捉えられているのはどうしても納得がいかないのです。


実は自己肯定感は他者承認によって、より強い自己肯定感を生み出します。

いじめを起こせる子たちには集団をまとめる政治力があり、そこから得られる他者承認はさらに自信を与え、自己価値が上がったと錯覚を起こしてしまうだけにいじめられる子の自己肯定感はいつまでも回復することはないのです。


また自己肯定感の暴走は社会現象にもなっているネトウヨやクレーマーたちを見ても分かります。

根拠のない自己肯定力が自分だけの正義を作り出し、悪いものを正そうとする事で評価されない自己価値を慰めようとしています。

別に今に始まったことでもないのですが、こういった人たちの存在は、自己肯定感が高いだけでは、人のストレスは解消出来ないことを意味しています。

 

自己肯定感はあくまで自己有用感を満たす材料でしかなく、自分の価値に不安を持ち自己有用感の欠乏を起こしている内は、仮に自己肯定感が高くても私たちの感情は安定しないのです。

努力がデキる子どもに育てる

人は何かを成し得る際、努力は不可欠だと知っています。

 

でも努力をしたからといって、誰でも成功するわけではないことも知っています。

 

親としてはこの矛盾を知りつつも、努力の大切さは何としてでも我が子に伝えたいと思うものです。

 

しかし、私たちは何のために努力が必要なのかを知らないから、つい成功や達成を引き合いにしてしまうのではないでしょうか。

 

 

 

では、努力は何のためにするのでしょう。

 

 

努力は他者との比較から解放されるためにするものです。

 

私たちは周りの目を気にしながら生きています。また相対的な価値によって自分の価値を追い求めようとしがちです。

 

しかし何かに打ち込み、努力する時間というのは、自分と向き合うことが出来る時間でもあります。

 

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周りに振り回されることなく自分を信じられるのも、向き合う時間があるからこそなのです。

 

ですから「何故努力をしなければならないの」と聞かれたら、周りの目を気にすることなく、自分を貫ける人生を選ぶために必要だと教えてあげましょう。